dis's habits.

習慣としての日記付け。

オリジナルについて考える(習慣継続47日目)

絵を描いていて、真っ白い紙に何でも好きなものを描いて良いと言われた時、それは自由な描写が出来るという事なんだけれど、改めて自由の大海原に放り出されると、その余りにも広大な自由さに逆に何をしたら良いのか分からなくなる。

 

なので、模写や二次創作などイメージが最初から具体的に出来る物であれば、海にも海岸付近に遊泳可能エリアがある様にその安全な狭い範囲の中で描く事なら何とか出来たりするんだけど。

 

そこで、改めてオリジナルという物について考える。

 

まず自分が考える前提として、オリジナルという事は”自分の主観が主軸となっていなければいけない”と考えた。

 

なので、自分が人生を生きていて思った何かしらの感情やある文化に触れた時に湧き出る感情の源泉こそがオリジナルの要素なのでは?と考えた。

 

漫画「ワンピース」の主人公ルフィも最初の船出は大海原にたった一隻の小舟で航海に出た。

 

自分の理想像(シャンクス)を夢見て、自分の格好良いと思った船員達を船に乗せていくうちに海賊界では誰もが認める強烈な個性に成長した。

 

それを絵に転用するとすると、先程の日頃から色んな文化に触れたり、日常生活でふと感じた感情のあれこれをこと細かに種類分けなどしてメモをとっておく事で、それが引き出しとなり、いざ大海原で、ある表現をしたいと思った時に、それが自分だけの遊泳ポイントになり、そこで研鑽を積んでいるうちに、それが他者から初めて個性と認められるのではないかと思った。

 

なので、一つの絵を完全オリジナルで完成させるという事は、基本的な描写の技術は勿論の事、自分が人生の中で感じてきた感想群の要素で構成させていく。と、いうことなのでは?、と。

 

人は間違いなく生きていて死ぬまでの間に何かしらの他者からの影響を受けるもので、それは言うなれば、他者の影響を全く受けていない作品というものは存在し得ないと考える。

 

そう考えると、日頃目にしているオリジナルという作品はそのどれもが何かしらの別の対象物をその作者が体験して感じた感想の要素の一部であるということ。

 

模写をさせて貰いたいと思った絵も二次創作させて頂いている対象物も自分が何かしら惹かれた要素があって描かせて貰っている物だと思う物。

 

ただ無思考に描き終えるのではなく、その何かしらをきちんと具体的にしてメモをとり、それを描いている最中にも、きちんとどんな些細な事でも湧き出た考えや感情はメモに掬い取っておこうと思う。

 

恐らく、オリジナルの要素が湧き出ている訳だから。

 

そんな話。