dis's habits.

習慣としての日記付け。

人生、進むも休むも戻るも自由。全てが自分の意思(習慣継続40日目)

生まれた瞬間から人間である以上はどこかの国のどこかの家族に属している事が殆どだと思うので、そういった意味で、そこから生じるルールなどの拘束感・不自由はあれど、基本的にはその不自由さの中で人は自由がある。

 

昔、深く考えた事があるのだが、自由はその解釈の壮大さ故に不自由さを感じる物で、基本的には自由を取り扱うには自分なりの型にはめてそれらを享受しないと、その自由に自らが振り回されることになる。

 

自由に振り回されたままでいると実は自由の外の大枠に存在する国や家族などの組織的な物が定めた不自由のエリアに侵入することになり、そこで本当の意味での不自由な環境に身を置く事になるのかもしれない。

 

なので、大枠にある組織的な物が制定した不自由のエリアとその中に広がる自身の自由のエリアの中で自制心を効かせながら、人は人生を生きていかなければならない。

 

昔はそういった意味で本当の自由はないのかもしれないと論じたものだが、今日の話はそういった物ではなくて、その自由のエリアの中で自制心を働かせて、死ぬまでにどれだけ自身を輝かせられるか、はたまた不自由なエリアに属するか、その選択の自由は不自由なエリアに侵入してしまわない限りは常に選ばせて貰えるという話。